たくなくの雑記帳

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チ。―地球の運動について―

今日は最近読んでる漫画の話。

チ。―地球の運動について―

最近この漫画を読んでます。『チ。―地球の運動について―』という変わったタイトル。

端的に言えば天動説が当たり前の時代に、地動説を主張した人たちの物語です。

 

こちらの漫画、現在単行本で6巻まで出ていて、昨年のマンガ大賞2021でも2位にランクインするなど、名前は見たことあるなぁ、くらいで認識はしていました。

ちなみにマンガ大賞2021の1位は葬送のフリーレンでしたが、これはこれでコンセプトとか登場人物の雰囲気がとても好きでした。普通にオススメできる漫画です。

そんな風に、知ってはいたものの読んでいなかった漫画を改めて読み始めたらとても面白かったというお話。

 

地動説の話

学校で歴史を習う中で、しれっと触れられていると思いますが、人類の歴史の中で

地球が太陽の周りを回っている(動いている)

という認識が定着したのは実はとても最近のことです。

人類の目から見てみれば、毎日東から西に太陽が動いていくわけなので、そりゃあ太陽が動いていると思うのが当然っちゃ当然の話でしょう。
そうした当たり前の感覚に加え、キリスト教的な「神が完全な世界を作った」という認識が加わり、「地球が宇宙の中心にあり、その他の星々が動いている」という天動説が長らく自然な解釈とされていました。

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引用:天動説(Wikipedia) より

それ故に、その天動説が宗教的意味を持つとされ、それを根底から覆す地動説は当時かなりの反発を受けたというのがこの物語のキーコンセプトになっています。

その反発の形としてはいわゆる「異端者」という扱いで、魔女裁判なんかと同様に、悪魔に取りつかれた邪悪な考えだとして、そういう疑念を持つことすら許されないという世界観が描かれています。

とはいえ現実はそこまで厳しくもなかったらしい

漫画の中では、そういった異端の扱いを受ける主人公たちを描いていますが、現実にはそこまで過激な扱いを受けなかったとされています。

地動説について言及する際に、必ずといっていいほど、地動説がキリスト教の宗教家によって迫害されたという主張がされる。
ローレンス・M・プリンチペは、「科学者」と「宗教家」の勇壮な戦いという19世紀後半に考案され普及した闘争モデルは、現在(2011年)においては、科学史家は皆否定していると述べている。

実際に、漫画の中にキリスト教が出てくるわけではなくて、あくまで架空の「C教」なる宗教が出るに留まりますし、現実の扱いとは一線を画す物語になっているようです。
レビューなんかを見ていると、「作り話なのか実話なのか釈然とせず、読んでて気持ち悪い」という感想があったりしますが、実話に着想を得ただけの作り話、でいいんだろうなと思っています。

〇〇な人たちの話

あくまで地動説を扱っているのはコンセプトレベルの話で、基本的には作り話だと捉えてよいと思いますが、この物語を「〇〇な人たちの話」と捉えたとき、どんな風に思えるのかというと、

  • 常識を疑う人たちの話
  • 真理を求める人たちの話
  • 自ら考える人たちの話

のような、そんな切り口なんではないかと思います。話が真実かどうかではなく、この漫画のこうした描き方がとても気に入りました。

常識を疑う人たちの話

一番分かりやすいのはこのあたりですが、C教の世界観で当たり前だとされていた天動説の当たり前に疑問を持ち、それを疑った人たちという捉え方です。

改めてこの漫画を読んで難しいなと思ったのが、「常識」というものの位置づけです。

現実の世界でも一般常識だとされることは多くありますが、それが真実であるとその都度検証するのはかなり難しいものです。一方で、そのコミュニティで円滑に生きていくためにはそれを疑いなく当然のことと思ったほうが都合がよく、人が人と協力して生きていくためには常識は必要不可欠なものだと思うと、この「常識を疑う」という行為の難しさが改めてわかります。

常識によってそれ共有する人との間で「話が通じやすくなる」効果があるわけですから、これは端的に言って、「話の通じない人」になることを辞さない人の生き方です。

真理を求める人たちの話

そのように、常識を疑うことはある意味、非社会的な側面も持ったりしますが、主人公たちを動かす原動力の1つになっているのが「真理を掴みたい」という欲求です。

これは何も主人公だけの話ではなくて、天動説を信じるC教の人間ですら「そうはいっても天動説では説明できない星の動きがある」という問題に対して、「真に正しい天動説モデルがあるはずだ」と信じて生涯を捧げる人たちの姿も出てきます。
天動説が正しい前提において真理の追究を行う点はさておき、真理を求めるという点では、対立する勢力においても共通点があるのが面白いところです。

自ら考える人たちの話

地動説に対する反発を受ける中で、C教の人間たちから「信じていれば天国へ行けるのに」といった疑問が投げかけられることがあります。
C教における常識があり、その常識の中で生きていけば不自由することなく、天国へ行けるのに、どうしてわざわざ異端への道に走るのか、と。

そこに対する主人公たちの考えはそれぞれではありますが、一貫しているのは皆それぞれが自らの生き方を考えているということだと思います。

天国があるならあるで構わないが、仮になかったとしてそれに納得できる生き方ができているのか、「でもそんなの死んでみるまでわからない」という人がいて、それに納得できるのか?など、そういうことの連続で自分の生き方を考え、問い続けていく人たちの物語であり、これもまた魅力的な点でした。

自分にとっての天動説はあるか?

別にそんな重大な気持ちで生きる必要があるかと言われるとそれはそれで微妙ですが、自分にとっての天動説ってなんだろうなと少し思いました。

天動説と地動説の対立は自然科学の認識にまつわるものであり、特に宗教的な公式見解を有するものでした。こうしたもので自分が取り入れているものはなんだろうと思うとなかなか難しいですが、別に宗教的な後押しがあるかどうかはなんでもよく、「自分が都合よく受け入れている常識」が何か、ということが少し気になりました。

先にも触れたように、「常識」は便利なものです。それを受け入れることに悩みはなく、それを受け入れることで余計な悩みを持たずに済む魔法のアイテムと言えます。

ただそれは時に麻薬のようなもので、その常識でもって色々なことを放棄している、みたいな効果を持つこともあります。
(この路線でいくとすぐ陰謀論に巻かれてしまいそうな気がしますが...)

なので自分が日々当たり前に生きている生活の中で、暗に諦めてしまっているものがないかとか、そういった「自分の生活に組み込まれてしまった常識を疑う」みたいなことには少し注意してみたいような、そんな気持ちになりました。

 

まぁ、色々書きましたが、含蓄の深いとてもいい話だなと、そんな風に思っています。自然科学とか、歴史ものが好きな人には特にオススメできます。

この調子でいっていつ完結するのか、どう着地するのかとハラハラしますが、繰り広げられるドラマがとても面白いですね。

 

参考記事

この「チ。―地球の運動について―」を取り上げた記事はちょいちょい見つかるので、こちらも参考にどうぞ。

それにしても、葬送のフリーレンに続いてマンガ大賞あなどれませんね。現在進行形でマンガ大賞2022の審査が続いていますが、今年も結果が楽しみです。(チ。については二次ノミネートにまだ残っているようです)

 

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