「決められる」ということ
最近モノの記事ばっかり書いてたんで、久しぶりに雑記らしいものでも。
「決める」ということは難しい
昨日こんなツイートを見ました。
「3ヶ月で家を買う」をテーマに相談料3.3万を先払いいただき、弊不動産部とメンターで支援する『すんでTeams』。12月に申込いただいた某夫婦、本日「買わない」という決断を下し、チーム解散に。公開するか悩みましたが、チーム内で留めるには余りある教訓を得たのでシェアします、うまく喋れるかな。
— すんで埼玉 (@sunde_saitama) 2022年1月28日
スレッドを追っていただければ話はわかるのですが、要点をまとめると
- スレ主(すんで埼玉さん)は個人向け不動産の相談サービスをやっていた
- とある相談者さんの対応である物件の申し込みに至るも、成約直前でNGになった
- その後もう一度よい物件に巡り合い、申し込みに至るもやはり成約直前でNGとなり、相談者への支援は終わりとなった
という内容です。
詳しい表現は元ツイを辿ってもらえばいいんですが、別に押し売りを仕掛けて逃げられたという話ではなく、マイホーム選びの根っこの部分から、内見等の納得感フォローまで、正直これを3か月3.3万円でやるなんて慈善事業に近いなと思うレベルでした。
じゃあどういうことだったのかというと、スレ途中なのでやや切り取り気味ですが
中間地点のカフェでお互い車で集まりご夫婦とぼくの3人で会話。家購入そのものへの不安が拭えない、やはりエリアは物件は正解なのか不安、そういう状態で契約を迎えられないと...。私としては自信をもって提案した物件、不安が尽きることはないと思う、再度考え直してみるのはどうか。で、その場で結論
— すんで埼玉 (@sunde_saitama) 2022年1月28日
というように、「不安が拭えない」という内容で取り下げたいという内容だったようです。
僕は元々このすんで埼玉さんのフォロワーだったので、同情的に見てしまうところはありましたが、相談者が家を欲しいと思っていた前提において「相談者は何を見ていたのか」「じゃあどうすれば(相談者にとっても)よかったのか」みたいなことをぼんやり考えていました。
「先の一手に向き合えない」ということ
ここから先は、第三者が勝手に考えたことなので失礼にあたるような推測もあるかと思いますが、率直に思ったこととして自分の頭の中を整理します。
家を買うまでの手順
一連のやりとりを見ていて思ったのは、「相談者は常に次の一手にだけ向き合っている」ということでした。
元々としてすんで埼玉さんに相談したのはきっと自分の家が欲しいと思ったからでしょうし、その道筋に向けて、すんで埼玉さんの質問に答えて、内見をするなど、「実はそんなに家がほしくなかったのだ」みたいな印象も感じません。
- 家が欲しい理由の整理
- 欲しい家の条件の整理
- 条件に合う家一覧の確認・内見
- 申込書への記入
- ローン審査の申請
- 最終決断
ただ、いずれの場合もその先にあるチェックポイント、「本当にこの家を買うか」という最終決断になって初めて、自分の中にある不安が拭えないと、実感しているようだったのが印象的でした。
先の一手に向き合えない
正直なところ、「いやいやそんなこと前からわかってたやん」と思ったりもしますが、相談者にとっては先の一手を考えるのがおそらく無理なタイプなんだろうなと、そのように思いました。
欲しい家の条件を整理しても「まだ具体的な家がわからないと、わからない」であるし、ローン審査の申請をしても「まだ買えるかわからないから、わからない」というように、何か不確定なことがあるとどうしても決断に躊躇してしまうんだろうなと。
もちろんこれは感覚的によくわかる話で、僕だって「いい物件があるかどうか分からないけど、絶対買うぞ!」なんてそんな決断はしたりしないので、一致不一致の問題ではなく、これは程度の問題なんだと思いますが、この相談者さんについては、それがきっと人より遅いところ、ギリギリのところにあるんだと思いました。
なぜ先の一手に向き合えないのか
ここから「なぜ先の一手に向き合えないか」ということに集中して、そういう人の特徴を考えてみます。
そうした「先の一手に向き合えない人」というコンセプトでどういう人かを考えると、しっくりくるのは「自分の選択が正しいと思えない育ち方をした」というケースかなぁ、と思いました。
子の選択と親のスタンス
この「自分の選択が正しいと思えない育ち方をした」というのは、もうダイレクトに親の育て方の話です。
小さなところから言えば
- 好きなお菓子を買ってもらえなかった
- 宿題のタイミングを強制された
- 自分でやったことを「勝手」だと評された
など、何かの価値判断が常に親のところにあったというケースです。
もちろん、子の判断なんて往々にして間違っていることはあるでしょうし、危険だとか不健康だとか、単純に子を思う親の気持ちで1つ1つの行動は作られていると思います。
自己選択への信頼感
ただそう育つとどうなるかというと、自己選択への信頼感がいつまでも形成されないことになってしまいます。
自己選択をして失敗したことで親から叱られたり、そもそも自己選択を否定されたり、親のコメントがないと自己選択の正しさを自分で信頼できなくなるのではないかと、そんな風に思いました。
なので、質問に回答することとか、何かの申請をするとか、そういった作業については問題なくできるものの、いざ「選択」となった場合には、どうしてもそこに自信が持てないという状況です。
これまで選択したことはなかったのか
と、ここまで「先の一手に向き合えない」「自己選択ができない」という像をもっともらしくイメージしていますが、じゃあ自分で家を買うまでそこまでの自己選択ってなかったのかという話です。
家を買うというのは典型的な取り返しがつかない(と思えるほどの)ライフイベントの1つですが、それまでのライフイベントを考えると
- 各種学校選択(小/中/高/大)
- 就職先選択
- 結婚相手選択
あたりが考えられます。
学校の選択は親の影響を強く受けるでしょうからひとまず自己選択からは外すとして、就職先と結婚相手の選択はどうでしょう。
就職先選択
就職先は、これはこれで親の影響を受けそうなイメージもありますが、まぁ多くの人にとっては自己選択度の高い、ビッグイベントであることでしょう。
とはいえ、どこまででも自由な自己選択になっているかというとおそらくそんなことはなく、「最終学歴の属性からして自然なところ」を選ぶことも多いと思います。経済学部を卒業して製薬会社に行くことは珍しいでしょうし、理学部に入って学芸員なんかを目指すのもそうです。
そのため、直接的に親の影響を受けないにしても、親の影響を受けた学校選択の影響を受けるという、うすーく既定路線は存在する構図になっている気がします。
加えて、就職先には試験があるので、自分が望むだけで選択ができるわけではなく、相手に選ばれることも必要になってくるため、「自分の一存で決めたわけではない」という特徴があります。
結婚相手選択
そうした「自分の一存で決めたわけではない」というのは結婚相手選択にも顕著で、相手に選ばれなければ当然結婚とはなりませんし、就職先に比べてはるかに選択肢が少ない(と思える)からこそ、かえって "選択" の悩みがないのが結婚相手の選択でしょう。
また、就職先でも同じことですが、これらの選択はある程度のタイムリミット(というか周囲のプレッシャー)があり、そうしたタイムリミットによっても自己選択の重みが薄れるような、そんな特性があるように思います。
初めての自己選択としてのマイホーム選び
そうしたことを思うと、実は考えるきっかけになった「マイホーム選び」というものは、親の影響から遠ざかり、そして相手の一存にもよらず、タイムリミットも薄い、かなり純粋な自己選択の機会であることがわかります。
「流されながら生きてきた」ような感覚を持つ人には、それまでの選択とは全然違う重さを持つように感じられるかもしれません。
ではどうすればよかったのか?
発端である「マイホームを選べない」のが、ここまで見てきたような
- 自分にとって、取り返しがつかない選択に思える
- その選択が自分の一存に委ねられている
- その選択は時間的制約をもたない
というシチュエーションで選べないことに起因するとした場合、元の話に戻ってどうすればよかったかということを考えてみます。
支援者の視点
まず先に、すんで埼玉さんのような支援者視点からです。こちらの視点では、
- 相談者は本来マイホームを欲しいと心から思っている
- 支援者として有望なマイホームに導きたい
ということを基本的なスタンスとします。
問題となっている「選択できない」という事象は、先ほどの特性に起因しているので、それらの思いを無くす、または緩和してやることが選択の支援に繋がるはずです。
従って、次のようなアプローチでしょうか。
- 自分にとって、取り返しがつかない選択に思える
- 取り返しがつかないことはなく、方向転換はこの程度で済みますよ、と「取り返しがつかない」という思いを緩和する
- その選択が自分の一存に委ねられている
- ここは簡単なアプローチが難しい
- 「周囲とよく相談して自信と安心を得てもらう」が有効ではあるものの、特性的に他人の一存になる可能性が高い
- その選択は時間的制約をもたない
- 可能であれば時間的制約を意識させる
- 「子の小学校入学まで」とか「ローンが組みやすいのはこの年齢まで」とか、自分の思いに左右されない外部起因のものが望ましい
とはいえ、支援者としては相談者の価値観を捻じ曲げてまで導きたいわけではないので、やはり限界はありますね。
相談者の視点
次は本人の視点です。これはもうただ1つで、
- 選択ができない自分に気付く
というものです。
正直なところ、この問題へのアプローチは「どうしたら選択できるようになりますか?」ではなく、「どうしたらそんな自分と向き合っていけますか?」に近いものだと思われます。
選択に対する適応度はどうしても、三つ子の魂百までというような、根っこの部分に関わっていると思うので、それをなんとかしていくには一朝一夕ではどうにもならない、成功体験の積み重ねが必要です。
仕事なんかでも「自分に自信が持てない、慎重で真面目な人」がいますが、そうした人に自信をつけてもらうには、
- 元々選択ができる人
- チームプレイ(失敗を過度に咎めず助けてくれる)ができる人
の近くに置いて、一緒に仕事をさせるのがよいと思っています。
そうすることで徐々に自分のやってることでも「あ、意外といけるじゃん」と成功体験が徐々に積み重なって、徐々に選択のスキルが身についていくのではないかと、そんな風に思います。
そうして、選択ができない自分に気付いた上で、ゆっくり時間をかけて選択できるようになっていくこと、短期的には支援者の助けを借りながら、自分の思い込みの部分がないか解きほぐしてみる、というところでしょうか。
と思って、元の構図を見てみると
日々のツイートや、この相談のくだりを見る限り、すんで埼玉さんは先ほどの選択ができ、チームプレイができる人にピッタリでした。
なので、皮肉な話ではありますが、「相談者ともうしばらく一緒に何かしてみる」というのが割と打開策になってしまうのかも、と思いました。問題は、 "もうしばらく" が半年なのか1年なのか、あるいはそれ以上なのかというところですが...。
(さらに、そこまでいったらいったで、別の「ここまでよくしてくれたのだから...」というある種の恩義的な圧力を感じて選択リミットを感じる、なんてのもありそうです)
もちろん、3か月3.3万円が慈善事業っぽいとはいえ、これ以上相談者に寄りそう義理もないので、正直どうしようもない手段なんですが、ヒントは結構近くにあったのかなと、そんな風にも感じました。
選択とはかくも難しい
とある一連のツイートから、ここまで妄想が炸裂したわけですが、改めて思うのは「選択は難しい」ということです。
生きていくとは選択の連続
正直なところ生きているって大なり小なりの選択の連続ですが、そうした何気ない行為を「選択」と表現しないからこそ、人それぞれの感じ方がかなり多様にあるのかなと、そのようにも思います。
例えば朝ベッドで目覚めてどのタイミングで起きようとするかも、典型的には出勤なんかのタイムリミットに迫られる内容ですが、休日なんかだと寝ていたい思いと起きてやりたいことをやりたい思いとの天秤で、とはいえ明日でもいいやとタイムリミットが少なかったりと多様です。
でもそんな1つ1つが重大なことだとはほとんど意識しないですよね。
「選択の科学」という本
こういった選択にまつわることを考えるといつも思い出すのが、選択の科学という本のことです。
選択というと個人の好みのように感じる内容ですが、それを動物実験やアンケート結果の統計的傾向などから、できる限り科学的に解釈しようとしたものです。
色々と、直感に反するような、でも言われてみたらそうであるような、
- 「行動すれば、よくなる」と思えない場合、行動しなくなる
- 選択肢が多いほど、選択しなくなる
- 何かに従っているほど、安心を得やすくなる
というような内容が書いてあります。
最近でも、かつて世界で最も国民の幸福度が高いとされたブータンが、インターネット等による情報のオープン化によって「自分たちは対して幸せではなかった」と思うようになったと言われています。
これはインターネットやSNS全般にも言われることですが、このマイホームの一件も「選択肢が広がり、溢れることによって、選べない人が増えている」ということの一例でもあったのかなと思いました。
お読みいただきありがとうございました!
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